庁立札幌高女卒業記念アルバムから授業風景をピックアップ

はじめに

手元に「昭和拾参年参月 卒業記念 北海道廳立札幌高等女學校」と書かれた卒業アルバムがある。これは義母の遺品だが、パラパラとめくっていくと授業風景を写したページがあった。当時はどんな事を学んでいたのだろうと黒板に書かれた文字を見ると、何とか読める。
1938年(昭和13年)と言えば、日中戦争が始まったばかり。アルバムの中には「祝戦捷」と言う文字も見えるが、未だこの頃は普通の学園生活を送っていたようだ。
この北海道庁立札幌高等女学校を調べて行くと、札幌北高、凌雲中学校と言うキーワードが出てきた。何れも私に少し関係している。また、同校の記念碑や東京楡の会と言う存在も知った。そんな訳で、これはひとつ、まとめて見よう、と言う気になった。
*スライドショー:札幌高等女学校校舎、修学旅行での奈良五月堂、演奏会、校内ピンポン大会、運動会での綱引き

庁立高女の概要

森田たまの随筆には、母校である北海道庁立札幌高等女学校の話がよく出てくる」から、一部引用すると、
「私たちの学んだ庁立札幌高等女学校というのは、当時北海道で唯一つの公立女学校であったから、全道の優良児がこぞって受験し、小学六年(当時は高等二年)から入学できるのはほんのわずかで、大ていは二、三度落第の経験を持っているからだった。ちょうど東京の一高でも受験するようなせまき門であったが、その代わり校舎の設備もよかったし、先生の質もよかった。」
とある。なるほど、森田たまさんの時代には北海道でたった一校しかなかった。その後、庁立高女は函館(1905年)、小樽(1906年)、上川(後に旭川、1907年)、釧路(1919年)、網走(1922年)、根室(1923年)、岩見沢(1924年)など次々と開校して行った。何れにせよ当時の女性にとって、「高女出」と言うと、一生の誇りになったはずだ。一方、男子校の北海道庁立札幌第一中学校は今の札幌南高等学校である。同じ高校でもその母体が違うと言う事だ。

北海道庁立札幌高等女学校記念碑

札幌高等女学校記念碑の画像北2条西11丁目にある札幌市立大通高等学校敷地の南東角に石碑が建てられている。 記念碑辺りが陰になって見難いが、その石碑には
北海道庁立札幌高等女学校は明治三十五年本道女子中等教育の嚆矢としてこの地に創設された高潔・清楚・温雅・堅忍の校風に育てられた有為の人材は校庭の楡の大樹を母校の象徴・心の故郷としつつ家庭に社会に多大な貢献をなした第二次世界大戦後昭和二十三年の学制改革により北海道立札幌女子高等学校を経て北海道札幌北高等学校と改称された昭和二十九年校舎を北区北二十五条西十一丁目に新築移転し創立以来のよき伝統を今日に継承している」 と書いてあった。
なるほど、校庭の楡の木が同窓会の名前になっているのだ。「赤い夕陽が校舎をそめて、ニレの木陰に弾む声」と言う歌もあった。
昭和29年に札幌北高校が現在地の北区北25西11に移ると、 その後は「札幌市立陵雲中学校」となった。この頃に私は平取町振内中学校から凌雲中学校に1日入学したのだ。
そして、1968年9月に陵雲中学校と一条中学校が統合によって廃校された後は、「札幌大通小学校」が大通西11丁目から移転した。そして大通小学校が2004年(平成16年)に閉校した後、2008年(平成20年)に「札幌市立大通高等学校」が開校した。いやいや、この変遷は覚えきれない。

校歌

アルバムに校歌が載っていたので、テキスト化して見たが、旧漢字が多くて、結構大変であった。
作歌 吉丸一昌 作曲 岡野貞一
1.豊平川の清き瀨に 心の塵をすゝぎつゝ 優し美し圓山の 櫻の花思ひにて 學びの窓の明暮を 樂しや我は過すなり
2.雪にも折れぬ椴松の 操を已が操にて 彊めて息まず怠らず 日頃の教かしこみて 學びの窓の明暮を  樂しく我は過すなり
*この校歌のメロディーは「東京楡の会」のホームページで聞くことができる。

古文の授業

この中に先生を除いて男はいないから、正しく女子高の授業風景である。黒板には「沙門、行脚、目守る」と言う文字が書いてある。文字からすると、これは古文の授業なのであろうか。

ここで「目守る」は何と読むか、分からなかったので、調べて見ると、むかし「目」は「ま」と読んでいた。例えば「目のふた」は「まぶた」だ。だから、古文で「まもる」は「目守る」と書くと分かった。

和歌の授業

これは古今和歌集と新古今和歌集との授業であろうか。黒板右から順に
古今調と新古今調、山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ、古今集、理知的、技巧的、優美 繊細
と書かれている。

古今和歌集で詠まれている「山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ」という歌はむかし、どこかの時点で習ったような。調べて見ると壬生忠岑の句とあった。意味は
山里は、秋こそがひときわ侘しいものだ。鹿の鳴き声を聞くたびに、目が冴えて眠れずにいます。
見たいなもので良いのだろうが、理知的、技巧的・・・と言われても、何とも分からない。

幾何の授業

これは幾何の授業のようである。生徒たちは何を証明しようとしているのか。図形の形からどうやら相似を証明しようとしているらしい。

三つの中でも易しそうな右側の黒板を見てみよう。
△ABDニ於テ ∠ABD+∠BAD=∠R △ACDニ於テ ∠ACD+∠CAD=∠R △ABD,△ACDニ於テ・・・
と書いている。結局のところ、二つの三角形に於いて、二組の角が等しいので、△ABD∽△ACDと持って行きたいのかな。むかし、高校のとき、「幾何」と言う科目があったが、あまり得意では無かった。それより「代数」が好きだった。今だと相似は中学生の数学でやるようだ。

英語の授業

アメリカとは未だ戦争前だから英語の授業があったわけだ。黒板にはシェイクスピアの誕生日を書いているが、訂正があったりしてちょっと見難い。訂正の部分は削除して整理すると

Shakespeare
He was born on the twenty third of April in 1564.
となる。ここでは誕生日を4月23日としているが、歴史的な証拠はないようだ。洗礼日は4月26日。出生地はストラトフォード・アポン・エイヴォン。

本人の写真

卒業時の本人の写真卒業アルバムの主は「北海道庁立札幌高等女学校」を昭和13年3月18日に卒業した。所属は本科4年4組。住所は小樽市汐見臺町53となっていたが、これは本籍か。
左の写真と所蔵の写真とを見比べて見ると、目元と全体がふっくらとした感じは似ていると思った。
高女時代、和歌を勉強したことがあるとは聞いていたが、授業風景から、それを垣間見ることが出来た。それがずっと高齢になって、私が紹介した俳句雑誌「かでる」に投稿する基礎になっていたのである。だが、それまで俳句は勉強していない。そこで、私が急遽、主な季語を集め、印刷して送った。もう、かれこれ15年も前の話である。

(2015/8/24記)

備忘録

英語の授業のとき出て来たストラトフォード・アポン・エイヴォンと言えば、そのむかし、三十数年前、カセットデッキの修理にロンドンに出張していたとき、同じメンバーの三人で行った事がある。その時の写真をと思ったが、適当なのが無いので、修理の様子を写した写真で代用。


・ドライバーでネジを外している人は「すずめのおやど」のあるじ。
・この時はオランダに行って修理、1978年2月16日(Heathrow Airport→Schiphol Airport)~1978年2月25日
オランダの紙幣10ギルダー(画像にリンク)

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